2020年7月2日木曜日

6月28日 被服支廠の見学・講演会および実行委員会を開催

(6月29日 読売新聞)

広島をどういう街にするか?


 6月28日、旧陸軍被服支廠を元広島大学工学部教授・石丸紀興先生の案内で見学し、その後講演も行って頂きました。
 「広島はかつて軍都=廣島だった」という事実を強烈に思い知らされた一日でした。朝鮮半島略奪のための日清戦争の時には、広島城に臨時の大本営が置かれ、アジア侵略の本格化に伴って陸軍兵器支廠、陸軍糧秣支廠も合わせて建設され、被服支廠で作られた軍服や軍靴と一緒に、それらを繋ぐ宇品線で移送され、宇品港からアジア各地に送り出されたのです。戦後、軍の巨大な敷地は県や市に払い下げられた一方で、軍都としての史実は極力抹殺した街づくりが行われてきました。
 石丸先生は自己紹介の際、旧満州で生まれ引き上げてきたと言われました。1969年の広大闘争に助手として向き合い、飯島学長(当時)に意見を申したことで生き方を決めたと言われました。被爆者や市民に相談もなく、了解もないまま進められる復興に異議申し立てて来られたそうです。例えば、カトリック教会が世界記念聖堂の敷地内にホテルや結婚式場を作る計画には、聖堂のたたずむ景観が失われてしまうと信徒有志とともに反対運動を起こし、計画を変更させたりしました。
 市当局や権力者に疎まれても自由に考え、自由に物を言うことが、「戦争とどう向き合って生きるのかは、人生の底流にある」とする先生の覚悟のように見えました。


 石丸先生は講演を、次の二つの印象的な言葉で締めくくりました。
「世界からも平和と反核を求めて広島に集まる人たちが自由に議論し合える場として、陸軍被服廠は保存されるべきだ」
「保存に際しては補強のために30億円以上の金額が必要と言われるが、震度7とか8の地震が来て、住民の家は崩壊しても、陸軍被服支廠や原爆ドームさえ残れば良いという話ではないはずだ。もっと、何のために残すかを議論することが大事。安易に政治利用を狙う安倍さんに便乗するのではなく、広島が方針を決め、それに政府が乗るかどうかを問うべきだ」
 安倍が今年の8・6に来た際に被服支廠を見学しようとしていることに靡(なび)こうとする広島への強烈な批判です。「今年の平和式典を慰霊目的に絞る」とする松井市長のパンデミック便乗した沈黙強制へ激しい怒りを共有できました。
 石丸先生の話を聞きながら、モロッコから来ていた留学生から「ヒロシマは平和のメッカと聞くが、どこにメッカがある?」と聞かれ、答えに窮したことを思い出しました。まさに、峠三吉らが朝鮮戦争反対の中で体現した「怒りのヒロシマ」こそ平和のメッカであり、我々の8・6ヒロシマ大行動の反戦反核の中にそれは引き継がれているのだと確信する一日でした。

(8・6ヒロシマ大行動実行委員会・共同代表 中島健)







講演会の後、第四回実行委員会へ。
被爆75年の8月6日に向け、それぞれが熱弁をふるいました。